报看。没有人说猫吗?猫的感受不重要吗?
开头部分无聊,到女主在东京面临电车难题时——是把男主作为要石插入,还是让地震带走几百万人——我以为终于有点看头了,没想到最后给我看傻了。
大臣(白猫)被女主解冻,从永恒的禁锢、镇压灾厄的职责中逃出,于是对她宛如舔猫。它不断引发灾厄,诅咒了男主让他逐渐变成要石,这难道不是想解脱吗?
黑猫应该也是白猫救出的,而黑猫又认识男主爷爷,这就很有意思了。爷爷之前说“男主要作为要石这样持续几十年”,以及男主身为人而可以变成要石的事实,都指向一个猜测——要石是一代一代人为镇压灾厄牺牲自己所化,而两只猫的“原型”就是“人”。
这也符合它们在男主朋友车上说的,它们的目的是“借人类之手,恢复原型”。如果它们的原型是没有感情的要石而不是人,为何要在被解冻之后逃出,让男主变成要石去承受这个责任。为何白猫还要救出黑猫。
再看男主逐渐变成要石的心路历程,他对死亡产生恐惧,他对生有强大眷恋,他不愿意离开女主,最后说“明明都遇见你了”。男主怕死不想变成要石(去承受镇压的责任),可以理解。那么同理啊,大臣也是有灵智有情感的,哪怕它原身不是人,随意牺牲大臣就是合理的吗?
尤其男主本就身为闭门师,把拯救作为使命。并非说牺牲男主就是对的,而是你自己都不愿牺牲,但是愿意牺牲别人,这......这是可以接受的剧情吗?
在常世,两只猫变回要石,男女主人手一个,将它们再次永远地禁锢,完成拯救世界 :)
豆瓣的影迷们,大家好,我是导演新海诚。应该有很多朋友都是通过《你的名字。》《天气之子》认识我的吧。之前《天气之子》在中国上映时,我对大家许下承诺,三年后我会带着新作品再次与大家见面。这次能带着《铃芽之旅》来到中国,实现这个约定我真的很开心。
豆瓣の皆さん、こんにちは。新海誠です。多くの人が『君の名は。』や『天気の子』を通じて僕のことを知っているかもしれません。『天気の子』が中国で上映されたとき、僕は皆さんに、3年後も新しい作品を持ってもう一度皆さんと会いに行きますと約束をしました。今回、『すずめの戸締まり』と共に中国に来ることができ、約束を守ることができて本当に嬉しいです。
想要创作这部影片的念头源于12年前的3.11东日本大地震,那是一场巨大的灾难,大地震和大海啸接连发生,整个城市都要被冲走了,无数人的生活受到重创。这场灾难后让大家产生了一种不知道日常生活何时会崩坏的感觉,所有日本人都非常迷茫,在思考国家接下来将何去何从。我不是地震的直接受害者,这也让我产生了强烈的内疚感:我作为一个娱乐电影创作者,应该担任怎样的职责?
この映画を作ろうと思ったきっかけは、12年前の3月11日に発生した東日本大震災です。それは本当に大きな地震で、巨大な地震と大津波によって街全体が流され、数え切れないほどの人々の生活が大きな打撃を受けました。 この災害の余波は、いつ日常生活が崩壊するかわからないという感覚を生み、日本人全員が非常に混乱し、この国はこれからどうなっていくのだろうと考えていました。 自分自身は直接の被災者ではなく、それも自分に強烈なうしろめたさが残りました。エンターテインメント映画の創作者としての自分の役割は何なのだろうと。
我一直认为电影有一个魅力是能让观众在情感上投入,即使与电影中描述的世界相去甚远,但只要吸引了观众,就能让观众与主人公共情。于是我把大地震作为重要元素,把主人公铃芽设定为一个受灾孤儿,她会经历怎样的旅程,就成了这部电影的主题。
僕はずっと、映画の持つ一つの魅力は、観客を感情移入させることだと思っています。いかに自分からかけ離れた世界を描いたとしても、作品に引き込まれれば、主人公と同じように共感することができると思うのです。そこで、震災を作品の重要な要素として、主人公のすずめの設定を震災孤児にし、彼女がどのような旅をするのかを映画のテーマとしました。
所以12年前那场真实发生的灾难中很多人的境遇和电影中的铃芽非常相似,失去了亲人,失去了家,也丢失了原本快乐的自己。大家在电影中看到的一些场景,就是实实在在发生的真实场景。电影最后铃芽回到了自己的家乡,打开往门回到小时候发生地震后的城市,火光肆虐,席卷了小镇,那都是真实还原了被海啸袭击之后的场景。还有一个场景,不知道大家注意到了没,就是有一艘非常大的船跑到了建筑物的上面,这也是现实中发生过的景象。
12年前のあの現実の災害では、多くの人が映画の中のすずめのように、大切な人や家、そして楽しかったころの自分を失ってしまいました。 映画の中に出てくるシーンの中には、実際に起こったシーンもあります。 映画の最後、すずめが故郷に戻り、扉を開き、幼い頃に地震が起きた後の街に戻るのですが、その時に猛威を振るい、街を襲う火災は、津波に襲われた後の様子をそのまま再現しています。 また、お気づきかもしれませんが、大きな船が建物の上に乗り上げている描写がありますが、これも当時実際にあった光景です。
基于此,我创作了剧本,跑到制片公司跟他们商量,听他们的反映。我害怕有人会反对,但是没有想到,我们团队的每一个人都非常地支持我,说“我们必须完成这样一部电影”。每一个人都认为,现在地震已经过去12年了,又刚经历了全球扩散的新冠疫情,这部影片带给大家是一个最好的时机,给经历过那场灾难的人们予以抚慰,给没有经历过的人们分享那段伤痛记忆的同时,也带来面对现在生活里困难的勇气与信心。
そんな思いで脚本を書いて、企画会社に持ち掛け、意見を聞きました。 反対する人もいるかと思いましたが、驚いたことに、チームの全員が「この映画は絶対に作らないとだめです」と応援してくれたのです。 震災から12年が経ち、世界中が新型コロナウイルスを経験した今、この映画は、震災を経験した人たちに慰め、そうでない人たちにも記憶を共有し、今の生きづらさに立ち向かう勇気と自信を与えられるのだと、認めて頂けました。
因此虽然整个故事是悲伤的情感基调,但是我依然希望大家观看的过程中,除了落泪也可以觉得非常开心、非常有期待,并且最后走出影院的时候,能带着积极正面的情绪,相信不管我们遇到什么样的灾难和痛苦,未来总是光明的,我们一定能够熬过去。
ですから、全編に渡って悲しいベースはあるのですが、それでも涙だけでなく、楽しい気持ちや期待感を持って観ていただいて、映画館を出るときには、どんな災難や苦しみに遭遇しても、未来には光があって、乗り越えていけるんだという前向きな気持ちを持って頂きたいと思っています。
我每次完成创作之后都会发现有不完美的地方,也非常需要观众给我反馈。我会思考在下一部作品中怎样去完善它,如果下次做到了就是一种进步,这十年间我就是在这样的创作氛围里努力做好我的本职工作。
作品を完成させるたびに、不完全な部分というのは見つかるもので、観客からのフィードバックがいつも必要です。 次の作品でどう改善するかを考えて、それができたら進歩したと考える。この10年間、そのように創作を続けてきました。
大家知道如果是真人电影,有了剧本接下来就会直接进行实景拍摄。但是动画电影不一样,我们首先要画绘画的分镜。画分镜的时候,我一个人几乎完成了所有的工作,不是一张张的图,是动画分镜,像动画一样的草图,两个小时的电影,我就画了两个小时份量的草图动画,一共做了一年三个月。而在做动画的时候,一定要有声音,有了声音才知道动画的节奏,所以我又去完成了配音,不管草太还是铃芽的配音,都是我一个人先去亲自完成的。在中国和大家见面的时候,我也尽全力在每一场现场表演了变成了椅子的草太配音,希望给观众们带来有趣的体验。
ご存知のように実写映画であれば、脚本があれば、次のステップはそのまま撮影になります。 しかし、アニメーションの場合は違います。まず、絵コンテを描かなければならないのです。 絵コンテは僕一人で全ての仕事を担当します。しかも僕は絵ではなく、ビデオコンテ、動画の状態になったラフを制作しています。2時間の映画なら2時間ぶんのラフなアニメを作ります、その過程に1年3カ月かかりました。 また、アニメーションにするときは音が必要です。音があるとリズムがわかるので、草太のアフレコもすずめのアフレコも、全部僕一人で行いました。 中国でみなさんとお会いしたときには、各会場で椅子になった草太を演じました。皆さんに楽しんで頂けたなら幸いです。
既然说到了小椅子,我也来分享一下一路带着小椅子旅行的故事吧。在过安检的时候,可能会被人家拦下来,问一下这是什么。他毕竟是主角,是我们这个作品最大的标志之一,而且一下子就能吸引到观众的目光。即便是没有看到过这部作品的人,也会产生好奇感,给大家深刻的印象。不知道你看完电影后有没有觉得草太椅很可爱呢?在我带着这把小椅子巡游各个国家的时候,不管是在接受采访的时候,或者是与观众见面会的时候,因为有了这把椅子,所以整个氛围还是很轻松很温馨的。所以我很感谢小椅子。
すずめの椅子の話になったので、すずめの椅子と一緒に旅行した話を紹介しましょう。空港の保安検査を通過する時、よく「これは何ですか」と呼び止められることもあります。 何しろ彼は、主人公であり、すずめの戸締まりのシンボルで、見る人の目を一瞬で惹きつける存在なのです。作品を見たことの無い人にも興味を持って頂き、深い印象を残してくれますから。 映画を観た皆さんも、草太の椅子をかわいいと思ってくれましたでしょうか?この小さな椅子を持っていろいろな国を回っていたとき、インタビューのときでも、お客さんに会うときでも、椅子があると全体の雰囲気がほっとします。 だから、この小さな椅子には感謝しています。
至于为什么是“椅子”,在我小的时候,父亲帮我亲手做过一个木椅子,在上面还写上了我的名字。那个时候我就觉得特别开心。对一个孩子来讲,有刻着自己名字的一个小凳子,就相当于是你自己专属的一个地方。所以这次影片中需要这样一个角色时,我自然地把小椅子创作了出来。
子どもの頃、父が木の椅子を作ってくれて、そこに僕の名前を書いてくれ、私はとても幸せな気持ちになりました。 子どもにとって、自分の名前が刻まれた小さな椅子があることは、自分の居場所ができたようなものです。 だから、この映画でそういうキャラクターが必要になったとき、自然とこの小さな椅子ができあがったのです。
另外,我有收到有观众提问说“小椅子为什么是三条腿?”这个原因我确实没有在电影中明确地讲,我在这里就特别跟大家分享下我的创作想法吧。因为铃芽小时候发生了海啸,整个家都被冲走了,这把小椅子也被冲走了,所以冲掉了一条腿。我觉得三条腿的小椅子其实就是铃芽内心的象征,她的内心始终会有一种失落感、缺失感,因为在地震中她失去了最爱的妈妈。我也借此告诉大家,即使我们可能是有缺失的、是不完美的,但是你依然可以生活得很好,可以去勇敢面对自己的生活,都能像草太一样,三条腿站起来自由勇敢地向前奔跑。
観客の方からは「なぜすずめの椅子は3本足なのか?」という質問を受けました。 映画の中では明確に言わなかったので、ここで私の考えをお伝えします。すずめが子供の頃、津波が来て家ごと流してしまった時、椅子も流されてしまい、その時に足の1本も流されてしまいました。3本足の小さな椅子は、実は震災で最愛の母を亡くし、喪失感や不在感をずっと抱えているすずめの心の象徴でもあるんですね。そして、3本足でも立ち上がり、自由で勇敢に前を向いて走っていった草太のように、たとえ欠けている部分や不完全さがあっても、勇気を持って自分の人生に向き合って、良い人生を歩んでいけることを伝えたかったのです。
影片中还有一个重要元素是“门”,我觉得“门”就是我们日常生活中很常见很有代表性的一个元素,我们每天都会开门说“我出发了”,在下班或者是放学回来的时候非常开心地说“我回来了”,这些日复一日的动作其实就构成了我们的人生。但是灾难就会让很多人有去无回,说了“我出发了”,但是很多时候我们就再也等不到亲人的那一句“我回来了”。现在在世界各地也仍旧发生着很多的灾难,但是我始终相信不管怎样我们都一定会有非常美好的未来,也希望通过我的作品能让大家更珍惜日常的幸福、更相信未来的美好,我们就一起这样好好生活着吧。
もうひとつ、この映画の重要な要素に「扉」がありますが、「扉」は、私たちの日常生活の中で非常によく見る、代表的な要素だと思います。 毎日扉を開けて「行ってきます」と言い、会社や学校から帰ってきたら嬉しそうに「ただいま」と言う、そんな日常の行動が実は私たちの生活を構成しています。 しかし、災害によって、多くの人は「行ってきます」と言いながら、大切な人の「ただいま」を待つことができないまま、帰らぬ人となってしまいました。世界中の多くの場所で、今でも様々な災害が起きています。作品を通して、皆さんが日常の幸せを大切にし、明るい未来を信じ、共に生きていくことができればと願っています。
还有看到大家在讨论铃芽和草太的感情,其实这次这部电影主要想讲的是铃芽,她自我和解和自我成长的故事,我觉得不能单纯描写情愫,需要让铃芽和一个人之外的东西产生交流,让她更好完成自己的蜕变。而在处理铃芽和草太的感情时,我认为草太对铃芽来说是一个非常向往,却又未知的形象,她可能有些近似于憧憬的小情愫的感觉。所以我希望在大家观看整部影片过程中,能让大家关注的,不是他们两个人应不应该在一起,而是他们如何并肩克服困难,获得自我成长。
また、皆さんが議論している、すずめと草太の感情について。今回の映画で伝えたかったことは、すずめの自分との和解と成長の物語です。そのためには、ただ恋愛を描くだけではダメで、すずめとその外にある物事との交流を描くことで、すずめが成長できるようにする必要がありました。また、すずめと草太の関係を扱う上で、草太はすずめにとって、憧れの存在でありながらミステリアスな存在でもあり、憧れに近い小さな恋のような感情を抱いているかもしれないと思っています。ですから、全編を通して、2人が一緒になるべきかどうかではなく、2人が並んで困難を乗り越え、自分自身を成長させていく姿に注目していただければと思います。
大家在看电影的时候,可能会在看到铃芽第一次见到草太便被吸引追随的时候,觉得不太理解,觉得怎么就一见钟情到这种程度,对吧?但是我相信很多朋友在看到后面的时候就会知道,其实她不是一见钟情,还有更深层的原因在里面,相信细心的大家看到后面就会知道这个答案了。
すずめが初めて草太と出会ってから、彼に惹かれて、ついていくところを観て、「ひとめぼれだけでここまでするのか?」と分からなくなってしまう人もいるかもしれませんね?でも、実は彼女にとってはそれだけではなく、もっと深い理由があったということは、注意深い方なら続きをご覧になれば、その答えがおわかりになるかもしれません。
我还看到有很多观众在讨论电影的细节,很开心大家有关注到这些彩蛋。比如黄色的蝴蝶代表着铃芽对母亲的思念,它其实是一个可有可无的元素,也没有台词,有些观众可能根本不会注意到它,但是注意到它的人就会有更深的理解。还有比如说,我的影迷朋友们会对我作品里的人物很熟悉,我就会在电影里设置一些跟之前作品的关联,比如《铃芽之旅》的背景音乐当中,就有《天气之子》和《你的名字。》背景音乐的小片段插在里面。而且《天气之子》当中,有一个人物戴了一个骑摩托车的安全帽,这个安全帽在《铃芽之旅》当中也有人戴。其实我在影片里面会注重埋入这些小彩蛋,这样也能够让影片更吸引人。也欢迎大家可以去2刷3刷,去捕捉更多小彩蛋,发现更多惊喜。
また、映画の細かい設定について話している方も多く見かけましたが、そのような点にも注目してくれたことをうれしく思います。 例えば、黄色い蝶はすずめの母への憧れを表現しています。存在していなくても成り立つ要素で、セリフもないので、気づかない人もいるかもしれませんが、気づいてくれた人はより深く話を理解できるかもしれません。 例えば、僕の作品のファンの方で、私の作品に登場するキャラクターをよく知っていると思うので、例えば『すずめの戸締まり』の背景音楽の中に『天気の子』や『君の名は。』の音楽の一部を挿入したり、過去の作品とのつながりを設定することもあります。また、『天気の子』では、登場人物の一人がバイクヘルメットをかぶっていますが、このヘルメットは『すずめの戸締まり』でもあるキャラクターが被っています被っています。 このような細かい要素を作品の中に入れることで、より魅力的な作品になるようにしています。ぜひ、2回、3回と観て頂いて、より多くの驚きを発見して頂けると嬉しいです。
最后还要感谢和我一起制作这部电影的幕后团队,我们团队有一千多位员工跟我一起,才完成了大家在电影院今天看到的这部电影。当然更要感谢每一位观众,是你们的支持和喜爱支撑着我一直在创作。
最後になりましたが、この映画を支えてくれたスタッフたちに感謝したいと思います。今回の映画には1000人近いスタッフが関わっています。もちろん、この映画を観に来てくれた皆さん一人ひとりにも感謝したいと思います。皆さんの応援と愛に支えられて、私は創作を続けられています。
《铃芽之旅》初看之下是一部令人失望的作品。诚然动画制作的精良程度达到了新的高峰,但在意识形态上却好像落入了低谷,回到了中庸的调和模式。
和《天气之子》一样,铃芽在片中也遇到了终极二选一的问题:是选择世界,还是选择恋人?但不同的是,《天气》中的主角勇敢地直面了这一问题,并坚定地选择了恋人,即使代价是让整个世界降下大雨、陷入灾难。从这一选择中似乎能解读出新海诚在政治上的左翼倾向:如果要以人的异化为代价来维持世界的“正常”运转,那么这种“正常”不要也罢。
与此相对,铃芽的表现则显得有些首鼠两端。她先是在即将降下的灭顶之灾面前慌了手脚,无奈地牺牲恋人,拯救了世界。这与其说是一种主动的选择,不如说是输给了“必须做些什么来阻止灾难”的巨大压力,是在紧急状态下做出的违心之举。果然,拯救世界后的铃芽很快陷入了后悔,她拒绝了草太爷爷“将这一切当作荣耀,然后忘掉”的提议,又不顾一切地想要救回自己刚刚亲手牺牲掉的男主。
于是,令人失望的一幕出现了——基于电影中的设定,要镇压住灾厄,必须有人做出牺牲成为要石;为了回避掉“世界还是恋人”这个二选一问题,电影不惜在很短的时间内连续上演了两次和稀泥的戏码。
首先,女主决心自己成为要石以换回男主,即既不牺牲世界,也不牺牲恋人,而是牺牲自己——这是第一次调和。这种选择虽然略显“圣母”,但也算是常见的破局之法,成功作品如《魔法少女小圆》还会因为主角的自我牺牲精神而在观众心中造成持久的震撼。
然而,这种悲剧性结局对于致力于打造异性恋合家欢大电影的新海诚来说,是不可接受的。因此,影片又不得不出现了第二次调和——此前一直抵触做要石、想要寻求自由的白猫“大臣”,突然“良心发现”了,它主动地承担了牺牲的命运,也成全了男女主角的爱情。问题再一次被回避,而这一经过双重扭曲后的答案看上去便利得令人发笑:既不牺牲世界,也不牺牲恋人,还不牺牲自己,而是牺牲关系浅薄的第三者——哦不,为了彻底免除主角的道德责任,应该说是有关系浅薄的第三者恰到好处地自愿站出来牺牲自己。
如蒙大赦的男女主角不再考虑救回白猫,两人整理心情后,从此过上了幸福的生活。真是可喜可贺,可喜可贺。
结尾处,未来的铃芽对儿时自己进行了一番说教,试图用一碗鸡汤将之前发生的一切进一步合理化。未来的铃芽说,死去的人就是死去了,活着的人要接受这一点,然后继续向前,悲伤是暂时的,明天会更好(大意)。这段话放在现实生活中原本是再正确不过的道理,但偏偏这是一部含有超现实要素的电影,联系到铃芽在片中做出的选择,反倒让人越发疑惑起来——
为什么母亲的死是可以接受的,而男主的牺牲是不能接受的?为什么男主的牺牲是不能接受的,但白猫的牺牲又是可以接受的?
许多人在看完影片后,分成了白猫党和椅子党,围绕应该牺牲谁这个问题展开了激烈争辩。这种争辩并不是在没事找事,不如说,这是影片表面上自相矛盾的价值观导致的必然结果。为什么大家都应该活着,但白猫可以去死?如果不能合理地解释这个问题,整部《铃芽之旅》将陷入重大的价值危机。即便大团圆的结局能够掩盖掉很多问题,但是白猫之死依然会像一根刺一样,暗暗地扎在每一个观众的心中。
新海诚平息了电影中的地震,却无意中抽去了“公平性”这一要石,诱发了电影本身的伦理大地震。为了替新海诚关上他的门子,我陷入了苦苦思索。然后我想到了答案,这或许是唯一一个可以弥合电影中的价值裂缝的答案。
在说答案之前,我们先看一下新海诚想通过这部电影谈些什么。《铃芽之旅》以公路片的形式,带领观众跟随女主的步伐,周游了日本历史上多个重要的地震受灾地,这是电影的明线。铃芽一路上目睹了凝结于废墟上的过去人们日常生活的片断,同时也受到许多受灾地当地居民的帮助,观众从中能感受到灾害的残酷和善意的传承。而电影的暗线也并不隐晦,描绘的是铃芽的心灵修复之旅,新海诚借此探讨了灾难幸存者的心理重建问题。
铃芽作为311大地震的幸存者,在地震引发的海啸中失去了自己的母亲,这一经历塑造了她不同于一般人的生死观。影片的开头,当她从学校的窗口看到远方出现蚓厄的时候,她的第一反应不是逃跑,而是朝着蚓厄跑去。当男主以太危险为由让她赶紧离开时,铃芽却冲上去帮忙一起关门。“我不怕死”,是铃芽在片中多次说过的一句话,但这并不是出自纯粹的勇敢,倒更像是幸存者因为负罪感而表现出的对自己生命的轻贱。同样,当她发现自己可以替代男主成为要石的时候,她几乎是毫不犹豫地准备献出自己的生命,因为“我害怕没有草太的世界”。世界不能没有草太,背后的潜台词是,世界可以没有我——铃芽能够理解他人生命的珍贵,却不愿承认自己的生命同样珍贵,这种自轻的倾向并不是一个健康的心理状态。
在幸存者身上,我们经常能见到这样的“死亡冲动”。灾难是不讲道理的,它随机地带走一些人,又留下另一些人,逼得幸存者不停地追问自己一个没有答案的问题:为什么是他?为什么是她?为什么是我?为什么不是我?无数遇难者抱着对尘世的留恋离开了这个世界,而幸存者则想象着逝者的委屈与不甘,任由负罪感侵蚀着自己的内心。然而灾难不因任何人而起,也无法由任何人担责,没有人会否认逝者的不幸,但这份不幸不应成为对生者的诅咒。
这就是白猫之死的答案,为什么白猫可以死?因为白猫本就已经死了。
白猫象征的就是地震中已经逝去的人们,是那些无辜的、懵懂的、无法接受自己死亡命运的人们。更确切地说,是幸存者对这样的逝者的想象。这就是为什么,电影中的白猫像孩童一样天真而任性,甚至有一点点残酷——他们还太年轻、还远远没活够,如果给他们一个重生的机会,他们一定会尽可能地活下去,哪怕要用其他人的生命做交换。而与只在乎自身想法的白猫相比,黑猫显得更成熟,它舔舐白猫、引导铃芽和阿姨说出心里话、甚至主动与蚓厄搏斗——这是坦然接受了自己命运的大人。
铃芽天然地同情白猫,哪怕它并非这个世界的生物,铃芽仍想要收留它,和它一起生活,其中多半有她对逝者的愧疚心在作祟。按照弗洛伊德的理论,人的精神由本我、自我和超我构成,其中超我由道德原则支配,表现为一种在道德上的非理性的自我要求,幸存者感到愧疚、想要补偿或代替逝者,正是超我在精神中占据了主导地位的结果。但是,当铃芽发现自己心爱的恋人要因为白猫牺牲时,她开始憎恨白猫,她终于意识到这份对逝者非理性的同情有可能吞噬掉鲜活的生命——但她终究无法真的对白猫下手,因为逝者无辜,白猫只是生者的心中幻影,最终能够完成救赎的只有生者自己。
所以我们看到,在经历了和蚓厄的大决战,舍命救回男主后,铃芽从“死”过一次的草太身上感受到了强烈的生之意志(这里的草太或许可以看成是铃芽的分身,铃芽穿上草太的鞋子和衣服,暗示着两者的同一性),她的心态从“不怕死”转变成了“我想活”。与此同时,白猫仿佛感应到了她的内心一般,接受了自己的命运,回到了死者的国度。草太最后的封印咒语中多出的一段,呐喊出了包括铃芽在内的幸存者们的心声:“我知道生命很短暂,我知道死亡随时会来临,即使如此,再一年、再一天,就算只是再一小时,我们都想活下去!”铃芽终于不再沉溺于负罪的幻想之中,她选择允许死者死去,也允许自己继续活下去。(或者沿用弗洛伊德的术语,她完成了“哀悼”,走出了“忧郁”状态。)
最后的谜题是,铃芽在结尾处与儿时自己的对话中,悟出“原来最重要的东西,我早就已经拥有了”。这里“最重要的东西”指的究竟是什么?电影中没有给出直接的答案,因此观众有了自由想象的空间。按照上面的推理,在这里也许可以填上“生命”二字。生命是生者拥有的最重要的东西,活着意味着有无数个明天可以去书写,意味着可以尝试、改正、重来,意味着仍有“可能性”。
虽然《铃芽之旅》从很多方面来说并不是一部令人满意的作品,不过往好处想,新海诚还活着,他也还有“可能性”。
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延伸阅读:
锐评新海诚系列
《天气之子》影评:就让大雨把城市倾倒——比左更左的《天气之子》
《你的名字。》影评:《你的名字》并不叫希望
先摆出结论:二刷完后,个人认为在《铃芽之旅》里,新海诚拿出了目前最高的创作水准。
电影的宣传一直在说,这是新海诚“集大成之作”。首映看完后,我才理解到,这并不是说《铃芽之旅》像是集拼盘一样,集齐新海诚所有过往的优点;而是新海诚真的向前迈开了好几步。这是另一种“集大成”。
在《铃芽》里,他敢于打开自己,敢于丢弃固有的一些特质,向社会关怀维度的艺术创作去转型。这让片中的情感内核与表达深度,都跨向了更辽阔深远的格局。
与此同时,这也让它在全球的国际影坛上发出了重要的声音。毕竟上一次入围柏林主竞赛、收获大量好评的日本动画,还是很久以前宫崎骏的《千与千寻》。
新海诚在《铃芽》里究竟做到了什么,让它成为一部突破自我之作?
在“灾难三部曲”的前两部(《你的名字。》《天气之子》)中,新海诚展现了他对“世界系”青春物语一以贯之的坚持。但《铃芽之旅》就不太一样了,它的故事在某种程度上,是有点“反世界系”的。
女主角铃芽的人设,是遭遇童年创伤的311大地震幸存者。2011年3月11日,日本东北部仙台发生9.0级大地震,引发了空前的大海啸和核泄露,致使22118人死亡或从此失踪。铃芽家位于震源地,她的母亲也成了遇难者。失去至亲的铃芽,只好与姨妈搬到日本南部的乡下九州,尘封起相关的记忆。
时至今日,铃芽已是一名高中女生。因在上学途中偶遇了长相帅气的神秘男子,她意外来到一处废墟,移走了矗立其中的“要石”,因此打开了“往门”。打开这扇门,人就会在刹那间进入到“常世”。这里躲着“蚓厄”,这是一种会对地表进行巨大伤害的地震源巨兽。铃芽打开了这扇门,“蚓厄”就此被放了出来。
由此,铃芽要从南到北踏足全日本去关门,她的旅途就此开启。只有这样,才能保证数以万计的生命不会突然消逝。
经过以上对电影开篇的描述,大家肯定能对《铃芽之旅》产生初步印象。这是一个以灾难过后的痛楚与治愈为主题的青春物语,也是新海诚首度尝试公路片类型。行至最后,势必指向铃芽要如何对受伤的心灵进行自我修复。
相比之前的创作,新海诚这次最大的不一样,就在于社会议题的挖掘。如果说《你的名字。》《天气之子》中的陨石、暴雨,还需要观众用联想力,将它们作为现实灾害的一种银幕隐喻;那么《铃芽》则是一篇直接与灾害对话的“叙事诗”。片中所有的奇幻设定,都能在现实中得到对应。
以下是大家看完《铃芽》后,应该都会有所关心的一些议题与细节。我罗列出来,并逐个进行分析,希望能帮到你。
·“往门”的寓意
每处废墟里的“往门”,都是近代日本曾经发生过7级以上大规模地震的源头。全片的主线,可以被概括成是一场少女回溯“日本地震史”的旅程。铃芽每次关门,都是一次纪念与祷告。
铃芽的行进路线:九州(现居地)→四国爱媛县→神户→东京→岩手县(老家)。这条路线分别对应着:2016年的九州熊本大地震,2014年的伊予滩地震,1995年的阪神大地震,一百年前1923年超过14万人罹难的关东大地震,以及2011年的311大地震。
“往门”其实还对应着一道道“家门”与“心门”。门里藏的,是过往的悲恸。而门外等着的,是人与人之间的温暖善意,也是我们必须收拾好自己、努力活下去的信念。
·草太的咒语
草太呼唤日不见神和土地神出来镇压“蚓厄”,这是一段与神明沟通的咒语。“日不见”指生活在地下的鼬鼠,它们以蚯蚓为食,对“蚓厄”有震慑力。此外,草太也需要向土地神强调:人是百代之过客。
废墟不只存在于现实,也存在于许多人的心中。废墟里包含了受灾幸存者的挂念,以及罹难者的记忆。新海诚以此咒语,表达对土地的敬意、对罹难者的缅怀。
·“要石”的牺牲:猫咪大臣的身份
从片中宗像羊朗爷爷与铃芽的对话、与左大臣的对话,左大臣被镇在东京“往门”(关东大地震后被镇下)这几处细节,我们可以综合推测出:左大臣与大臣的前世,有可能是一对闭门师亲子,只是他们作为人类的意识已经消散了。大臣也许在化为“要石”之前,还是个稚气未脱的天真孩子,就这样停滞了意识。
爷爷曾对铃芽说,她亲手把草太变成“要石”是荣耀,并要铃芽把他忘了,通过他的牺牲换得几十万人的安宁。能看出来,这是个流传下来的惯例,每个“蚓厄”的轮回世代(每隔百年),都会有闭门师家族的人,要做出类似的牺牲。“要石”并非是从天而降的神灵,而是人被物化后,成为的镇压地震的神物。
·大臣一路上的目的
如果把大臣理解成是一个孩童天性的人,而不是一个反派,他的动机就变得非常简单。铃芽不小心把他放到人世,他重见天日,幻想能和铃芽成为家人。新一轮的“蚓厄”来袭,大臣本想让草太替自己完成使命,最终却牵引着命定之人(铃芽)到达了“常世”。
一路上大臣看似邪恶,但他的目的却很单纯。比如那句“从现在起会有很多人死掉”,以阴险的心理和天真无邪的心理说出来,完全是两种意思。片中其实是后者。而在铃芽表达对大臣的不理解乃至恨意后,大臣的神力与形象都瞬间瘦小了下去,这也很符合小孩子的精神状态。
最后铃芽想让自己成为新的“要石”,此时大臣为了舍命保护她,才说出“我当不了铃芽的小孩了”,并主动化为“要石”。铃芽才猛然醒悟,原来大臣一路都是引导着自己去找“往门”。大臣虽然是全片最萌的吉祥物,但也是个悲剧性角色。
·三条腿的椅子
这把椅子是铃芽妈妈亲手给她做的,家被海啸冲毁时缺了一条腿。它象征着地震给一些受灾者造成的身体上的创伤,同时也象征铃芽失母后的心理创伤。草太变成椅子后,就算只有三条腿也照跑不误,表达的是地震受灾者们的坚强与坚持。
新海诚也提到,关于椅子的另一个隐喻是:最近几年,很多年轻一代都感到被困住、被束缚。他想把人们的困顿感,投射到草太被封印进椅子里这个设定上。
·姨妈爆发出心底的阴暗面
左大臣通过心灵控制的方式,让姨妈透露出心底的苦恼。在这12年的生活中,姨妈与铃芽生活在一起,彼此都没法把自己的真心话说出来,久而久之,反而导致了铃芽成长路上的心理障碍。为了解决这个问题,左大臣才插手此事。这样做虽会伤害彼此,但这些伤人的话被直白地说出来,反而促使铃芽能够向前再迈开一步。
此外,姨妈追着铃芽奔走,恰好对应了左大臣追着大臣想要弥补错失。两组角色都陷入了代际问题当中。
·废墟的创作来源
近几年,新海诚发现街道愈发冷清,不少地方人迹罕至,逐渐成为废墟。观察废墟,会感到奇异的浪漫与悲伤,也会感到独特的美感与情感。现代废墟正越来越多地出现在世界各地,他因而想创作出一个悼念土地的故事。
在看《铃芽》最后几场戏时,我在脑子里联想到了滨口龙介的《驾驶我的车》。两者都是回到灾后废墟,与过往的人生达成精神上的和解。后来我发现,这不是毫无逻辑的联想。《驾驶我的车》改编自村上春树的同名小说。而新海诚也表示,《铃芽》的一些创作灵感来自村上春树的《海边的卡夫卡》《神的孩子全跳舞》。
·铃芽在“常世”里见到幼时的自己
这是我看《铃芽》时最大的一个泪点,原来铃芽就是她自己的“命定之人”。因果循坏,命运的齿轮前后咬合。如同《哈利波特》里,哈利用时间转换器拯救自己一样,本片拥有相似的时空与情感逻辑。“常世”里所有的记忆与时间都汇聚在一起,跨越并折叠着所有时空的维度。
铃芽之所以踏上这趟旅程,是因为那个救赎幼时自己的人就是她本人。只有自己了解自己的痛苦与欢乐,也只有自己能做出真正的选择。当她说出“未来并不可怕,我是铃芽的明天”时,那一刻我才理解到,铃芽逐渐走出内心的创伤,并非是因为发生了什么奇迹,而是因为她在这12年间,平凡、普通,而又努力地活着。
·“我出发了。”
这是《铃芽》里最常出现的台词,也是日本文化语境里最常用的话。短短四个字,却包含了很多层意思。地震当日,每个说出这句话的人,可能都再也无法重新见到家人。这句话成了他们之间的最后一句话。
所谓灾难,就是说出“我出发了”之后,再也无法说出“我回来了”的时刻。逝者的亲人不仅要承受这份失去的痛苦,还要承受回忆的重压。所以每当关门时,铃芽都会听到当地人们源自生活的声音,悉心感受门里那些日常生活的记忆与情感。
而这也是新海诚透过电影想让我们铭记的——日常的一个个纪念性瞬间、那些珍贵的情感瞬间,它们不会轻易消失。即使离世,也仍会给世界留下印记。还活着的人,不会忘记他们,不会忘记那些记忆,会一直温柔地记住,并不断出发,去驱散阴霾。
正如草太所言,“我知道命如蜉蝣,死亡如影随形,但我依旧祈祷,哪怕只是再多一年、再多一天、再多一时,我们也想要活下去。”
每个靠自己的意志走出至暗时刻的人,每个努力做自我修复的人,应该都会对《铃芽之旅》产生很深很深的共鸣。
我支持此译名的理由:
先看看原文的“戸締まり”在《大辞林》中的释义:
戸締まり(名)スル: 出入り口の戸や窓などを締め、鍵をかけたりなどして、外から入れないようにすること。
简而言之:锁门。
我们知道锁门实质上就是将本可以活动的门扇通过插销之类的装置与固定的门框连结,使门扇无法活动从而达到阻止通行的效果。
接着看下中文中的“户”“缔”二字:
户:半门曰户,象形。——《说文解字注》
也就是半开的门,“门”是两边对开,从繁体“門”字形可看出。
缔:结不解也,从糸帝声。——《说文解字注》
缔:结在一起。屈原《九章》:“气缭转而自缔。”引申为缔结,订立。贾谊《过秦论》:“合从缔交,相与为一。”——《古代汉语常用字字典》
相关词:缔连,缔合,缔结,缔约,缔交,缔盟,缔婚等。这是由物理的连结引申向抽象意义的连结,是汉语发展过程中的词义扩大。
可以看出,“缔”字含义与锁门动作本质上的共通处,因此,用“缔户”表示锁门,虽然是日语用法,但作为中文也是成立的。
接下来是语序问题,按照中文语序,门是被锁的,是宾语,应在动词后,“锁门”应当对应“缔户”,译名保留日语“户缔”是否不恰当呢?
请看中文中的例子:
“兵挫地削,亡其六郡。”《史记·屈原贾生列传》
“兵”被“挫”,“地”被“削”。“户”被“缔”。
这样的句子中,受事者置于动词之前,成为焦点。
因此,“户缔”语序在中文中没有问题。
接下来是美感。
这一点,我想先介绍一下由俄国文学理论家什克洛夫斯基提出的“陌生化理论”:
“给平常的事物赋予一种不平常的气氛,这是很好的;人们喜欢被不平常的东西打动。在诗歌中,这种方式是常见的,并且也适宜于这种方式。”
陌生化理论在文学上有着广泛应用,我国古代也不乏有诗人用字求新求奇求险,不遵成规,不落窠臼,为的就是给人“耳目一新”之感,“延长读者的感受时间从而增加美感”,而汉字的含义不断丰富的过程,也离不开创新的用法。因此如果以“我们古代用‘阖户’,用‘闭户’,又不用‘缔户’”为由反对此译名,未免有点低估汉语的创造力,容纳力,生发力。
大家或许听说过,“取缔”这个词,就是近代由日本传入,而在它在现代汉语中的含义“明令取消,关闭,禁止”中,我们难以发觉与“缔”字本义“系结”的关联,但这个词依旧为我们的语言系统接纳并且固定下来。而“铃芽户缔”不仅意思上可以得到解释,同时“缔户”并不作为固定用法进入汉语,只是一部电影的译名中临时的语言现象,这样看来,大家又有什么不能接受的呢?
此外,电影的标题并不承担让观众一目了然地知道作品讲的是什么的功能——我们有简介。也并不追求一定是在语法上准确无误的,表达上符合语言规范的,能让人从字面上直接了解含义的。标题,完全可以以简洁的音韵美和形体美为导向,即使要以会变得“不知所云”为代价。何况本例还可以得到解释。
综上所述,我认为“铃芽户缔”作为《すずめの戸締まり》的中文译名,虽然表面上是删去了所有假名而已的粗暴移植,但实际上选词含义通顺,语言结构有据可循,印象上整体简洁约练,是可接受的,合适的,甚至优秀的。
2023年2月12日编辑:
想补充一下,好多小伙伴的回复看上去是把不同的译名完全对立起来了,只要支持某一个就一定是在否定其他,这篇文章的所谓“支持此译名的理由”,就只是阐述一下我认为“铃芽户缔”作为译名可以接受甚至好的原因在哪里。这种过程不存在对其他译名的攻击,也没有要粗暴地把不同喜好的人区分开来贴上“雅”“俗”“文艺”“土”等任何定式的标签,更绝没有要贬低喜欢其他译名的小伙伴们的自身价值。
译名并没有唯一的标准答案,实际上后面的几稿“铃芽的门锁”,“铃芽之旅”,我也认为很得体很恰当。“铃芽小姐来锁门”我虽然觉得有些欠考量,但如果你喜欢,我也相信你一定有个人的理由,如果你愿意花时间组织语言并分享出来,我也非常欢迎。
本文围绕的问题,本身只是一个语言上的小问题,是一个完全可以在轻松随意的氛围中展开意见交换的问题,意见的分歧很正常,因为大家对文字的感觉各不相同,对“电影标题”应当具备的特征也都有自己的标准,我发文的目的并不是要让大家都来认同我,认同“铃芽户缔”为最好的答案(这一点我自己也并没有断言),只是想分享自己的感受和随之的一些思考。
所以,支持我也好,反驳我也好,希望大家友好地发表观点,谢谢。
新海诚
不算新海诚粉丝,但是也为《秒速五厘米》和《你的名字》感动过。所以在我心里,他一直挺擅长描写青春时一些细腻的爱情。
但是这次的爱情不要也罢。
在《你的名字》刚出来的时候有这样一则新闻吸引了我:一个叫“新津组”的建筑公司官网下面,挂出了《你的名字》的详细介绍,里面在介绍新海诚的时候赫然写着:鄙社社长之子。这是一个多么打动人的故事:一个不小的建筑公司,家族企业,新海诚作为社长之子,没有选择一条简单的接班之路,而是通过自己努力,最终成为日本最具票房号召力的动画导演,一步一个脚印的走向了他的梦想。这个小小的(鄙社社长之子),特别可爱的表达了他父亲的骄傲。
但是走到今天,面对新海诚拍出的基本结构都出现大问题的电影,票房号召力再高,再所谓“集大成”,又有什么用呢?
铃芽是如何爱上板凳的?我不知道。大臣为什么对铃芽的感情是这样?我不知道。左大臣与大臣的关系是什么?我不知道。还有很多关于片中最核心人物的细节,动机,感情,我都不知道。
看完电影后,我女朋友跟她朋友聊到这些导致观感非常差劲的疑惑时,她朋友发了一长段解析:什么片子是小说改编,铃芽他们走过的地方就是日本几次重大地震发生的地方,铃芽相当于是幸存者代表,大臣是以前应该是一个小孩闭门人变得,所以现在性格仍是这样反复无常,左大臣是他妈之类的blablabla,有些解析的其实挺好,但是我却根本没有任何仔细看的心思。
在看到非常好的作品的时候,当我们了解了其背景故事或者一些作者巧思的设定以后,我们会有种恍然大悟的震动,比如去年我很喜欢的一部“谜语人”动画:夏目真悟的《少年漂流》,在看完并了解到片子里很多隐藏的设定、人物背景故事、角色背后的挣扎和思考后,心中会充满感动(强烈推荐,喜欢奇幻和青春题材动画的朋友不要错过)。但是当我看到《铃芽之旅》的解析,我满脑子只有:“哦。”和“哈?”
《铃芽》里,我一个主要角色都没感觉,很难共情,板凳就不说了,包括铃芽和大臣也是一样。因为你会觉得他们的行动都很奇怪,他们更像是导演的“提线木偶”,一个个木偶们在导演的指挥下完成了一些机械的动作,去表达导演想要灌输给你的一些挺刻板的关于“灾难”“爱”“成长”“和解”的思想,而不是让能在观众心中慢慢生根发芽的“人”,他们会有他们的想法和行动,就像你身边的人或者你的朋友。
所以我能记得的反而是一些配角,他们在途中遇到的那些人:橘子女孩,带着两个孩子的妈妈桑以及男主的朋友。(吐槽一句,男主的朋友也太工具人了。)片子里我最打动我的一句台词是姨妈说的:“我刚才说的是真的,但那不是我心里唯一的想法。”
姨妈为了铃芽在这十几年中的付出是普通观众很难想象的,所以这个人物真实想法以及她的挣扎其实很容易打动我们,最近看了刘擎和罗翔关于“人是否应该带上面具”的对谈,其中刘擎老师讲了一段话我很喜欢也深深认可:
“人内在的自我是有多种构成的,无论讲理性、本能,讲佛洛依德的本我、自我、超我,还是柏拉图讲的理性、激情、欲望,人的内在自我本身是一种结构,而这种结构是存在内在的紧张关系的。”
所谓的“天人交战”其实也就是这样,有时候我们的理性与我们的本能在战斗,有时候我们的超我与我们的自我在战斗,而正是在这样的战斗中,才焕发出了人类最真实,最打动人心的故事。
所以正当我觉得这个角色开始变得有血有肉,可能与主角即将开展一些艰深的对话之际,她居然立刻在导演的指挥下与女主和解了。
好比在饿了整整三天之后,朋友告诉你,你辛苦了,就在今天晚上,他要给你大办三天宴席。但是你到场的时候却发现,宴席里充满了节日的气氛,有世界上所有好喝的酒,美味的果汁,但一样吃的东西都没有。
为了纪念的纪念
汶川地震的时候我大二,作为一个成都人,那个下午的地动山摇是无法忘却的。直到今天,我也依然记得当房子开始剧烈晃动,伴随着快要跳出来的心脏,我跟所有同学一起跑出教学楼,跑到操场上都站不稳的那个时刻,和操场上持续摇晃着的旗杆。
之后也看过一些汶川的纪录片,不管是关于地震当时,还是关于汶川人民慢慢走出伤痛,能够重新笑着生活的。看这些纪录片时,看到汶川人民真正失去的是什么的时候,心里那种五味杂陈和深受震动是难以用语言去形容的,但是眼泪知道。
大地震是一个民族的记忆,我很明白这一点。但就算带着这样的记忆,我也真的很难在铃芽里真正感受到新海诚想表达的那种纪念。
对我来说,《铃芽之旅》却更像是一种为了纪念的纪念。
全片关于灾难的设定、隐喻,包括铃芽失去了妈妈后重新开始生活开始成长开始爱的主题,大多都浮于表面,很难让人感到真切的伤痛。只有一个瞬间是打动我的,那就是每到一个废墟,门大开之时,闪回着那些人们在还不是废墟的城市中,温馨生活的场景。
我不敢说新海诚是否忘记了他做动画的初心,但我知道的是,他在《铃芽之旅》里想要表达的东西是很多,但是一个都没有表达好。
真正能够打动人的作品不可能是概念先行,光靠主题堆砌的作品。
如果一个作品的体裁没办法承载其内容,那它存在的必要就要打上一个问题。在这里,如果小说有很多能够表达的东西,但是由于电影在体裁和时长上的限制,没法去还原这些小说中最打动人的点,那这就是一次失败的改编。
看完电影回家的路上,跟女朋友聊,我说:“可能是现在新海诚做大了吧,要考虑市场和金主爸爸的想法了。新海诚,被绑架了你就眨眨眼。”在我看来,以前的作品中,新海诚的作者性都挺强的,但是他现在好像沦为了票房和商业门面。
一如现在的Radwimps。
写口水歌的Radwimps
我算是Radwimps的老粉吧,以前我是多么喜欢野田洋次郎这个神经病(褒义)啊。
怎么有人能写出《Tummy》这种角度如此刁钻的情歌:「她一直都是属于我的,这点你必须牢记,这是我的最高誓言。但你是第一个破坏它的,给我听好了,我不会再说第二次,也不会再跟你多费口舌,所以你一定要坚强,但并非充满暴力,我会永远爱你,但仅次于爱你妈妈,毋庸置疑。」用对自己孩子的嫉妒来表达对妻子的爱,好笑又好气的事,洋次郎是个既没有妻子,也没有孩子的神经质。
又怎么能有人能写出《五月の蠅》这样真实又脆弱的前任之歌,「啊尸体我想看到变成尸体的你。我总是自惭形愧低垂着脑袋,在说名字之前总爱先说对不起,一直以来我都是双手合十如此这般活到今天,这样的自己真傻。一看到你这副模样,我突然觉得自己是世上最纯洁无暇的人。」「我绝不会原谅你,无论怎样绝不原谅。就算你遇到过路魔,被刺到内脏四溢,你大口大口吐着血,死命求助,我会带上耳机听着最喜欢的曲子,用你外露的肠子跳绳,我绝不会原谅你。」(网易云里看到的小故事:五月の蝿这首歌是因为吉高出轨睡了BIGMAMA的vo野田愤而写出这首歌么出轨绿帽详情还是这首歌出了好几年后BIGMAMA的vo自己犯病在blog写的但是野田被绿了以后跟吉高还是又又又复合了,然后被吉高甩了)
以前的Radwimps,对我来说,是新鲜且丰富的,它像是你身边那个朋友,他既是一个脆弱的人类,但又很有才华,能够把自己最真实的感受随时随地传达给你。
但是自从《你的名字》以后,Radwimps的歌都像是一首歌,无论是歌词,还是配器、旋律和结构。这种重复感,硬生生的把本来是属于自己的风格,弄成了一种口水风。
也不是说现在的歌旋律有多不好,或者真的有多难听,但就跟无法在《铃芽之旅》感受到真情一样,我也无法从Radwimps给影片写的歌《カナタハルカ》的歌词里:「在成长为大人之时,我们是否会相遇呢?那数以万计的爱之歌,你是否清楚其中意义呢?但恋爱既不是革命也不是焦躁,更不是天崩地裂,而是你啊。」「你的笑容不知为何,更像寂寞的表情。你的歌唱方式就好似今日晨曦般美丽。比起几千年后人类在做什么,我更想看的是,你那还未曾被人见到的笑容。」感受到任何真实的情感。
洋次郎啊,如果你被绑架了,也眨下眼吧。你不能比周杰伦更堕落啊。
绝望了,非要用猫置换你那小男友是吗
爱猫人士看不得这个,小猫为什么要成为男女主爱情的牺牲品,小猫那么可爱,那么无辜,那么喜欢女主,女主怎么可以凶小猫,到最后也没给小猫道歉!你也知道当要石多么痛苦艰难,不想让你男人当,为啥就让小猫当,小猫对人类仁至义尽了!自私丑恶的人类就应该灭绝!!!小猫统治天下!!
两只猫咪,原本是怎样的两个人呢,有些可怜捏,很在意,能不能出个番外交代一下。看完特典画册发现大臣原始形态就是在往门里面那只大猫,那无缘无故让闭门师来顶替它自己的使命,就有点太过简单了,就是寂寞了想出来玩就牺牲掉一个闭门师的生生世世吗,真是有点……
我在意的是,你们真的把两只猫猫给扔在那了😭
大臣我啊,不能去铃芽的家啦。暴风哭泣。
像在网红餐厅吃了一顿饭。
新海诚所有作品以来的超越之作,谁说你电影没内核,这次咱不就飞升了吗!这次他将作品献给了所有人,你是否也在等待着为你打开门撞破桎梏的人呢。和解是人生最重要的一步,痛苦才能让我们学会成熟,一笑了之,你现在经历着的正是最美丽的人生啊!
和天气之子一样完全无法理解男女主之间突然的深情,但其他部分都优于前作。一直都更喜欢偏向表达自我的作者,但新海诚的内在世界总让我觉得幼稚和苍白,这次选择社会化一点的中心议题反而比较好。一如既往的精致作画下掩盖不住喷薄而出的恶趣味。
下届奥运会没女主我不看。
11.7提前点映。简要的感想大概有这么几点。1、虽然涉及了记忆不可能性的问题,但是对灾害的专名(例如3.11)过于固执。2、恋爱线展开过程中情感互动太苍白,以至于不得不将男主设定成大帅比来弥补坠入爱河的动机。3、在设定上灾害之门只在人口减少的寂寥场所才会出现,但是人山人海的东京也成为了其中之一,为什么东京是一个寂寥的场所,处理方式过于暧昧。整个电影都在散发着一种“就算是充满灾害的列岛之国,我们也要、也能够继续活下去”这样的强有力的鼓励,但是因为以上几点的拉胯,导致这个鼓励的感动至少减少了一半。
《你的椅子》
期待拍续集,讲述铃芽去四川封印地震的故事。第一部铃芽体验了神户小酒馆夜生活,第二部可以拍铃芽去四川旅游,发现地震的时候四川人还坐在河里打麻将。
女主的角色性格也太不讨喜了吧,看得全程迷惑脸。为了一个上学路上萍水相逢的陌生男子,就学也不上了,家也不回了,抚养自己十年的姨妈也不要了,一门心思追求真爱去了。这种浪漫爱的情节真是让人受不了啊。另外,我一直想问女主的爸爸在哪里?二娃酒馆老板娘的丈夫又在哪里?如果日本社会普遍都是丧偶式家庭的话,女主到底又为什么会莫名其妙对一个异性产生爱情啊?这样的异性根本就不可靠啊,不是吗!
铃芽和她的椅子,从狭长日本的西南九州,一直跑到东北宫崎,横穿了整个岛国。途中乘新干线,经过名古屋到东京站,再到御茶水,这种我曾经也走过的路、见过的风景和建筑出现在动画电影中的兴奋心情,大概是只有在这里实际生活过的人才能体会到的,更不用提它可能带给观影者饱含代入感的灾后反思了。以前一直对新海诚无感,大部分是因为拒斥莫名其妙的爱情展开,凭啥这就爱起来了?但我现在觉得“想要接近”只是爱的必要条件,“害怕远离”才是其充分条件,即铃芽所说的“没有草太的世界才让我恐惧”,或《雀斑公主》那句“我不愿想象没有你的未来”所表达的不可或缺性。或许只要当事人清楚感受到这一点,爱就可以成立。至于这种不可或缺是从哪来的,则全无所谓。正因如此,人才愿意打破以往循规蹈矩的生活,去追逐梦想,否则和咸鱼有什么区别?
相较于之前相对私人化的作品,《铃芽户缔》包含了之前新海诚作品中不怎么出现的社会性元素。正面描写311东日本大地震对社会,对家,对人的深层次摧毁性的同时,也正好映衬着当下的疫情世界,以及疫情背后闭塞的日本社会。此外,或许这些年去过太多日本的乡村,泡沫经济后留下的废墟,以及311的受灾小镇,当看到这些熟悉的场景以动画的形式出现在影片中时,感触很深。世界虽然越来越混乱,还是希望能够守护,珍惜世间美好。新海诚或开启属于自己的新篇章!
真是,拍了八百年还是那味儿,不了解爱也不会讲故事,只会一味地铺华而不实的浪漫爱神话。从女主为了男主死活不跟一把屎一把尿拉扯大的姨妈好好解释为什么自己不着家,我就知道这一看就是幼稚没吃过苦的男宝编的看似工业糖精实际把女的智商碾在脚底的文化大糟粕
請給我芹澤車上的歌單,我下次出門聽!
结局若是男女主都变成要石,猫咪依偎看风景就更妙了
新海诚比较适合拍言叶之庭和秒五那种剧情可以用一句话概括的,一旦有起伏就不太行了
旅途和废墟 所有情感中只有爱情最无聊